うみうしです。現在、某国立大学の修士課程2年生です。
大学名は伏せますが、旧帝大以上の国立に通っています。
実は私、世に言う貧困家庭で生まれ育ちました。母は高卒、父はFラン大学卒で両親共に非正規雇用です。
ボーナスとかもらったことないし聞いたこともないという。
子どもの頃に住んでいたアパートがボロすぎて、友達にも隠していました。ただ、なぜかバレて馬鹿にされたこともあります。消えない記憶ですね。。
こんな貧困家庭で育った私が、なぜ所謂高学歴と呼ばれる大学を目指すようになったのか。
高学歴を手にして人生どう変わったのかを話していければいいなと思っています。
まあ正直なところ、まだ社会人になっていないので人生変わったと言えるのか疑問に持つ方もいると思います。
ただ、個人的には今の大学に行かなければ修士課程に進むことはなかっただろうし、論文をだすことも叶わなかったはずです。
就活も学歴様様で内定をいただくことができました。名前が知れている企業に入社することができたので、母も喜んでくれました。
貧困は再生産されると言われている中で、私としては結構生まれ持った運命を変えられたんじゃないかなと思っているということです。
何の努力もせずに敷かれたレールの上をただ歩いていたら、きっとFラン大学に入るか高卒で働いていたと思います。
もちろん、それが悪いと言っているわけではありません。ただ、生涯年収は大きく変わることは示されていますし、お金がなくて苦しんだ過去から見てもお金があればできること、やれることは変わってくるんです。
高学歴を手にしたいと思った過去
貧乏であることへの不満
物心つく頃には私の家は貧乏なのかもしれないと気づいた。
周りの家と比較してもわかるぼろいアパート
友達のプレゼントを買いたいと言い出せず、ぎりぎりまで悩んだ過去
欲しいものを欲しいと親に気遣って言えなかった
父の給料未払いが続く日々
習い事一切したことない
世間的に見ても貧乏な家庭だった。貧乏と言っても、食べるもの、着るものがないというレベルの超貧乏家庭ではなかったので「余裕がない」家庭と言ったほうがいいかもしれない。
必要最低限の生活はできるけど、とにかく余裕がない。
しなくてもいい習い事はやったことがないし、塾にも行ったこともない。
一番困ったのは友達の誕生日プレゼントや友チョコ。
自分のお小遣いの範疇からは到底準備できないものだった。
最終的は家にあるもので代用したので、友達たちの視線が痛かったのを今でも覚えている。(しょぼかったということ。私も渡すの自体ためらったほどなので、、)
周りの友達は裕福そうで、自分の欲求を出すことに躊躇いがない。
アレが欲しい、コレが欲しい。言っても許される環境に彼らはいた。
お金がない、お金を使うことへの罪悪感。お金がないというのは、人の行動を制限するのはもちろん、心の余裕をも奪う。
友達と遊ぶにもお金がかかる。だから遊ぶのも避けたくなる。
全てはお金がない、貧乏であるせいだと恨んだ。
貧困家庭で生まれ育った私は、必然的に大人になってからもお金のことで悩みたくないと考えるようになった。
生まれ持った運命を抗いたいという欲求
貧困にまつわる話は、よくニュースに出てくる。
貧困は循環するだとか、東大生の親の約6割が年収950万以上だとか。
お金がない親の元に生まれたのならば、子どもも親と同じ運命を辿る可能性が高いと言われたようだった。
この世に生まれ落ちた瞬間に、自分の運命はある程度定められているのだと。
これだけ平等平等と叫んでいる割には、何処に生まれるか、親はどんな人かで人生が変わる事への違和感が全身を襲った。
貧乏を再生産したくない。生まれ持った運命を抗いたいという意思が私の心の中に芽生えた。
社会への怒り
貧乏は自己責任、努力不足の証だという人もいる。
確かにそうかもしれない。努力しなかったからいい大学に入れずにいい企業に就職もできなかったのだと。
しかし、既にある程度敷かれたレールの上を歩む人が多い中で、全員が努力できるわけじゃない。
塾に通わせてもらって、中学受験して進学校に入り東大へ行く人と、勉強する環境が整っておらず公立中高出身で東大へ行く人が同じ努力量なわけがない。
何もしなくても東大へ行く最短ルートが示されている人と、自ら情報を探しに行って自分で何が悪くて何が良かったのかを考え遠回りしながら東大を目指す人では、目標を達成するための努力量は変わってくる。
私の母も大学に行きたかったらしい。ただ、環境がそれを許さなかった。
その結果、低学歴にキツイ社会で必然的に貧困になってしまった。
社会は貧困に優しいようで冷たい。貧困者に対する支援は多くあるが、その実、裕福層からの見下しの目や冷たい目は常に付きまとう。
貧困は自己責任という考えが根底にあるからこそ、貧困者に対する冷たい風が吹いている。
社会全体で貧困の再生産を防ごうという意欲がまるで感じられない。
こんな社会を自分の運命以上に恨んだし、怒りが止まらなかった。
だから私は高学歴を手にしたい
自らも貧困にならないための一番の選択肢は「高学歴」になる事だった。
良い大学に入ることで良い企業に就職するのが、一番貧困からの脱出方法として可能性が高いと考えた。高学歴と呼ばれる大学の中には有名企業への学校推薦もある。
何の能力も才能もない私が貧困のループから抜けるにはそれが一番だった。
なんだかんだで平等に行われる日本の大学受験。筆記試験をクリアしてしまえば一気に高学歴が手に入る。
海外のように経験を金で買うなんてことはできないから、日本の受験制度は有難かった。
がむしゃらに努力すれば高学歴が手に入るかもしれない、、。
そうして私は貧困、運命、社会に抗うために高学歴を手に入れることを目指して走り出した。
高学歴になった今、思うこと
何度も挫けそうになりながらも、何とか高学歴を手にした。合格した瞬間は「ああ、貧困から抜けられる」と希望の光が差し込んだ。
大学と大学院の合わせて約6年間過ごした今、高学歴になって思うことがいくつかある。
高学歴のおかげで楽に就職活動を終えた
これは言わずもがな。大企業に入社できる確率が格段に上がる。
中には学歴フィルターがない企業もあるみたいだけど、実際のところ学歴で判断している企業が多いのも事実。
面接に行く前の段階で落ちることはほとんどなかった。大体会ってはくれる。
また、理系なので技術職は溢れるばかりの求人。倍率を考えても、やはり理系高学歴は就活を楽に終えられる傾向がある。(もちろん、人によるが)
更には学校推薦があるので、正直どこでもいいと思っている人なら、想像するような苦しい就活をしなくてもいける。有名企業ばかり推薦きてた。最高かな。
上には上がいると実感できる環境に身を置けた
高校はそこまでレベルの高い高校ではなかったので、私のようながむしゃら努力タイプが多かった。
しかし大学に入学するといわゆる「天才型」がもう大量発生しておる。
なんでそんなことまで知ってるん?とか
どんだけ努力してんねん!とか思うような人たちばかり。
中には怠けている人もいるけど!
優秀な人に囲まれて生活できたのはいい刺激になった。
まあ、自分の劣等感を助長してしまったのも事実ではあるけどさ。
自分より少し上のレベルにいるような人が身近にいると、その人をモデルにして自らを高めようとするから、勝手に成長していることも。
馬鹿にされたくないなあ~と思って勉強頑張ってるみたいなところもあるから、やっぱり高学歴を手にしてよかったと思う。
大学に入ってからが本当の勝負
これが実は一番伝えたいこと。
高学歴を入手した!と思って大学生活ダラダラ過ごしてしまうと、、、取返しのつかないことに!
自分よりも学歴が低い人たちのほうがいい就職先を手にしたり、貧困に戻ってしまう可能性もあるのだ。
なんだかんだで純粋に学問を追求してしまうと、その後の人生に影響を及ぼしてしまう日本の大学。
好きなことを好きなだけ勉強するのが大学だろ!と信じていたけど、それやると就職爆死。
経験を金で買う時代。ボランティアやサークル活動で培われる人と差別化できる経験というのは、金で買える。
学費の為にアルバイトを頑張りすぎると、上記の経験はできない。就活で「学生時代、何を頑張ってきたの?」と言われても、答えられる経験がない状態になる。
貧困家庭だと自分で学費を出すケースが多いと思う。
頑張って高学歴と呼ばれる大学に入学したとしても、学費のためにアルバイトをせざるを得ない。
裕福な家庭に生まれた子どもがボランティアやサークル活動をしている間に、アルバイトをしなくちゃいけない。
就活のときに差がでるのは金で買える経験。貧困家庭の子は高学歴の大学に入ったからと言って、安心できない。経験を金で買えないから。
大学は学問を深めるところ。その一方で社会経験を積むところ。異なる価値観の人と協力して何かを成し遂げる経験をするためにある。
どれだけ貧困家庭の子が頑張って良い大学に入っても、結局アルバイト漬けで就活のときに使える「学生時代に力を入れたこと」が無ければ就活うまくいかないかもしれない。
「ザ・貧困の闇」だと私は思う。
【結論】高学歴は人生を変える力があるのか
貧困から抜け出すチャンスを生み出す
上記でも散々語ってきたけど、やっぱり貧困から抜け出すチャンスは増える。
より良い企業に入社できる
自分よりも才能がある、努力家の人と接することで刺激になる=頑張れる
一番は大企業に就職できる可能性が格段に上がるということだと思う。
自分に才能がなくても、凡人でも高学歴なら採用してくれる会社はある。
研究室の先輩たちの就職先も名の知られている企業ばかり。
ひとまずこの先の人生がどうなるかはわからないけど貧困から抜け出したと言ってもいいと思っている。(もちろん、途中で退職したりして貧困に戻る可能性は0ではないけど)
学歴は血統書なのかもしれない
よくわからない大学出身の学生と東大の学生。どちらの信頼度が高いかは明白である。
高学歴であるだけで、世間の人の目は優しくなるもの。
最低限の教養と知識を兼ね備えている人物だと勝手に認識してくれるから、個人的に学歴は血統書なのかもしれないと最近思う。
生きていく中で「勇気と自信」をくれる
勇気と自信。これを与えてくれた。
大学受験のとき、隙間時間もずっと勉強して。また勉強してるよと笑われながらも勉強して。もうやりたくないと泣きながら勉強して。
あのとき頑張っていた私が、今の私の背中を押してくれることがある。
あれだけ頑張れたのだから。無謀だと思えた大学に挑戦して合格できたのだから。やればできるんだ、私って。
そう思わせてくれる。
挑戦しても大丈夫、また乗り越えられると勇気をくれる。
自分はレベルの高い大学に合格できたんだから、人並み以上に努力できるし能力もあるんだと自信をくれる。
これから先、辛いことが沢山あるだろう。何度ももう無理かもしれないと諦めそうになるだろう。
それでも大学受験のときに必死に戦っていた時の私が「あなたはまだやれる、あのとき乗り越えられたじゃない!」と背中を押してくれるはず。
高学歴になった副産物かもしれないけど、「勇気と自信」は私を支えてくれるだろう。
まとめ
貧困家庭から高学歴を手にした私としては、生まれ持った運命に十分抗えたと思っています。
高学歴が人生をどう変えるかはこれから先の楽しみとして取っておくとして、今の時点では貧困の道を辿らずに済みそうです。
ま、人生何が起きるか分からないですけどね笑。
とりあえず、学歴というのは貧困を抜け出す最後の希望です。凡人にとっては。